こわっぱちゃん家 舞台「Picnicへのご案内」鑑賞
優斗……滝啓祐
和田……晴森みき
晴……トクダタクマ
(以上、こわっぱちゃん家)
ユキ……山田梨佳
ま-み……中野亜美
賢之助……松ノ下タケル
マリ……鳴海真奈美
脚本・演出 トクダタクマ
画像出典:こわっぱちゃん家様
あらすじ
舞台はシェアハウス「Picnic」。
そこへ落ち着いた大人の女性・ユキがやってくる。
リビングへと向かう階段を降りようとする際、なぜか足の具合を気にしているが実際踏み入れてみると痛みはまったく気にならない。
そんな彼女のほかに優斗、まーみ、賢之助というメンバーがいる。
優斗はインテリな青年。
まーみは元気で明るい娘。
賢之助はお調子者のお兄さん。
そんな男女4人の充実した共同生活が華々しく幕を開けた。
しばらく時が流れたある日のこと。
和田という女性が見学のためにシェアハウスへやってくる。
隣には大家のマリ。
和田はすぐにメンバーたちと打ち解ける。
一方のマリはまーみのもとに向かい、
「Picnicへの案内が来た」と告げる。
その言葉の意味を瞬時に察したユキ、まだそれが何かわかっていない賢之助。
まーみは悲しい顔を浮かべることなく(いや、隠していたのだろう)、いつもの明るい様子で迫り来る最後のシェアハウス生活を楽しむ。
そして翌日、その場を後にするのだった。
Picnicへ…行ってきます
※ネタバレ注意※
まーみが去ってからもシェアハウスでリア充な生活をしている男女たち。
ところが途中からステージ2階のサイド部分より見下ろしてその様子を伺うひとりの男が現れる。
(このステージの使い方に驚きと感動!)
彼の名は晴(はる)。
その真向かいに医療関係者の格好をした女性が。
マリだ。
彼女はシェアハウスの大家ではなく、高齢者たちの医療施設に勤めるスタッフだった。
実は晴が見ているシェアハウスとは高齢者たちの脳内に繋がれて作られた仮想空間で、住人である高齢者たちが自分が最も充実していた頃の姿で生活していたのだ。
仮想空間だからどんなにお酒を飲んでもカラダを壊すことはないし、食料等は勝手に補充されるから事欠かない。
優斗 85歳
まーみ 98歳
ユキ 92歳
賢之助 65歳
これらがそれぞれの実年齢だ。
名前が現代っぽいのは今から数十年後の世界なのかもしれない。
そしてこの実世界の4名は今この瞬間ずっと眠り続けている。
Picnicとはつまり……死。
先日マリから告知を受けたまーみは天寿を全うしてこの世を去ったのだ。
晴はシェアハウスにいる祖母のユキを気にかけている。
ここへ来たときユキが足のことを気にしていたのは、実年齢の姿のときに負った痛みだったから。
晴は元気なうちに祖母の面会に行ってあげられなかったことを悔やんでいた。
やがてユキの体調が悪化する。
そして、このままではもう長くないという。
最期の瞬間を悟っているユキ。
もうじきPicnicの案内がやってくるのを虚ろな様子で待っている。
そんな折、シェアハウスにひとりの訪問者が。
晴だ。
孫との再会を果たしたユキは本来の祖母の雰囲気を纏っていた。
晴はユキにこれまで来れなかったことを謝り、ようやく祖母と孫は邂逅する。
そして訪れる退去のとき。
彼女に思いを寄せていたルームメイトの優斗も「一緒にここを出て行きたい」と彼女に伝える。
「あの世で旦那に叱られるかもね」と冗談まじりに言うユキ。
そして、彼女はシェアハウスに別れを告げる。
「……行ってきます」と。
高齢化社会への警鐘と皮肉
本作は高齢化社会をテーマに、自分の人生に未練を残した者たちの人間ドラマだと思う。
今や孤独死も老々介護も珍しくない。
定年が延長になったし、高齢者教習の問題だって多く不安を孕んだままだろう。
人生100年時代なんて言われているけど、死ぬその瞬間まで健康でいられる保証などない。
年老いて心身ともに衰弱したヒトは果たしてどこへ向かうのか?
その時、自身は自分の意識をはっきり持てるのか?
私も亡き祖父を介護する両親の姿を間近で見ていかに大変かを知っていたから、この話が隠し持つ影の側面に胸をギュッと締め付けられた。
名前にヒントが隠されていた?
(あくまで個人的な解釈)
会場に置かれていた本公演のパンフレットにあらすじ・役名・キャスト・スタッフが書かれている。
本作で気になったのはユキという役名。
晴が登場する中盤あたりからメインのポジションを担っていくキャラなのだが、実は物語にちなんだネーミングだったのではないか?と勝手に思っている。
まず孫の名が晴だから、真逆の雪にした可能性。
もし人間の一生を四季に例えるのならば、
晴=若さあふれる夏のイメージ
雪=終わりに近い冬のイメージ
ユキが誰にも看取られることなく孤独死を迎えようとしていた矢先、最後の最期で晴がやってきて再会して(=雪に晴れた陽が当たって)雪解けを果たすという伏線になっているのでは?と考えた。
さらにPicnic(=逝く)だから、逝きとのダブルミーニングでもあるのでは?とも。
もっと言えば、再会を経て幸せな終わりを迎えたという幸(ゆき)とも捉えられる。
(さすがに深読みしすぎだろうが)
終盤あたりマリが晴に「おばあ様は徐々に体力が弱まっていて危険な状態です」と説明する場面があるのだが、それを反映したかのようにユキの目元は終始どこか虚ろだ。
本編が始まったときからどこか悲哀なものを背負っているような何かを感じたのは、まさかこのラストまでの伏線だったのか?
すべては作者と演者の心の中にだけ答えがある以上、こちらにそれらの真意を測る術はない。
後悔のない人生を
いつもブログでは印象に残った役者さんを数人挙げるのだが、今回は物語の世界観のほうがとても印象的だった。
Picnicは誰もがいつか迎える日。
明日もし自分にその案内が来たら、この人生に誇りを持って二度と後戻りの出来ない遠足へ旅立つことができるのだろうか?
ましてやこんな厄介な時代だからこそ抗って、くたばることなく思いっきり生きたい。
そして作家としての夢をたくさん実現させ、悔いのないように笑って逝きたい。
最もグッと来たのは終盤、賢之助が優斗に生い立ちを語るシーン。
彼はロン毛でお調子者なお兄ちゃんに見えるが、実生活では引っ込み思案で後悔ばかりの人生を送っていた。
(※ここで賢之助という名前に合点がいく)
だがこの仮想空間にやってきてようやく自分を変えることができた。
そして年齢が30歳上の明るいまーみに恋をした。
(残念ながら退去という形で別れが来てしまったが)
でもそれってよくよく考えてみると、とてもつらいことじゃないだろうか?
やはり現実の世界で自分の人生を楽しく悔いのないように生きなきゃやりきれないはずだ。
しかし、ほとんどの人たちが素直な自分を押し殺して後悔の日々を送ってしまう。
どうやら我々は何かにつけて後回しにしようという脳の仕組みになっているらしい。
「後でいいや」と思って気づいたらもう手遅れだった、なんて怖いじゃないか!
日々自分の生き方を省みるとともに危機意識を持つことの大切さ。
今この瞬間だからこそできることがあり、今だからやらなきゃいけないことが山ほどある。
後悔は決して先には立ってはくれない。
だからこそ自分の力で己のあり方や生き方をより良いものに変えていかなければならない。
そう教えていただいた作品だった。
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