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瞳M「メガネを作る人間と売る人間は違う。作る人間がいなければ売ることはできない。しかし、売る人間がいなければ作ったままで終わってしまう。お互い持ちつ持たれつのはずなのに、このように意見が食い違ってしまう。だから私は福井を離れ、東京へと戻った。これ以上好きなメガネのことで父と揉めたくなかったから。他の工房と売場も私たち親子のようにピントが合わず収差を起こしているのだろう」

鏡輔「まるで収差だな」
瞳「え?」
鏡輔「レンズごしに見るものがボヤけることだ。メガネ屋なんだから知ってるだろ」
瞳「当たり前でしょ」
鏡輔「このままじゃ埒が明かない。もう用事は済んだろう? 早く母さんのところへ行ってこい」

瞳M「そう言うと、父は作業に戻った。ふと私の中で何かが引っかかった。これは長年販売員をしている勘か、それとも娘としての第六感か。なぜか私は振り返った。プレス機を操作する父の手元が狂う、その一瞬を私は見逃さなかった。危うくプレスに手が押しつぶされそうになるその一瞬を!」

瞳「危ない!」
鏡輔「大丈夫だ」
瞳「ケガしたらどうするの!」
鏡輔「大丈夫だと言ってるだろう!」
瞳「やっぱ変だよ、父さんらしくないよ! 飛んでもいない蚊が見えるとか手元が狂うとかそんなことこれまで一度もなかった。ねえ、それってもしかして―」
鏡輔「網膜剝離、そう診断された。少し前、作業中に転んで大切な機械の角に頭をガツン、とな」
瞳「もうすぐ手術するんでしょ?」
鏡輔「断った」
瞳「え、どうして?!」
鏡輔「数か月は目を安静にさせなきゃならない。だが、そんなわけにはいかない。こっちはまだまだたくさん作りたいものがあるんだ、手を止めるわけにはいかない」
瞳「何言ってるの? 失明するほうが迷惑かけるんだよ?!」
鏡輔「それでも工房を畳むわけにはいかない」
瞳「父さん……」
鏡輔「なあ瞳、竹で作られたメガネフレームを知ってるか?」
瞳「職場で取り扱ってるけど、それが?」
鏡輔「手がけた近所の工房が今年いっぱいで廃業するそうだ」
瞳「え? それってもしかしてもう継ぐ人がいないから?」
鏡輔「…………」
瞳「そうなのね」
鏡輔「同じように、この工房にある小さな型に手彫りできる技術を持ってるのは鯖江で俺たったひとりだけだ」
瞳「…………」
鏡輔「細部にまでこだわったオリジナルのメガネを世に送り出す。それを使う人に技術や質を深く理解し味わってもらうことが俺の生きがいなんだ。時の流れで失われつつある古き伝統を残したいと願うのは老いぼれのわがままだろうか? 新しい技術が昔のそれよりも優れていると果たして言いきれるだろうか?」
瞳「……母さんには、目のこと伝えたの?」
鏡輔「伝えたら、今日もこうして作ってない」
瞳「そんな―」
鏡輔「皮肉だよな、メガネを作る人間の目が見えなくなるかもしれないだなんて」
瞳「たまに戻って来るよ。父さんが少しでも治療に励めるように私、手伝うから!」
鏡輔「ダメだ! お前は売る側の人間だ。作る側じゃない」
瞳「それでも役に立ちたいの!」
鏡輔「少し手伝ったくらいで習得できるほどこの世界は甘くない。お前だって職人の娘ならわかるだろう? それにたとえ娘だからって俺は決して優しく教えたりなんかしない。それほど覚悟がいる仕事なんだ」
瞳「すっかり忘れてたの、普段売り場でディスプレイされてるメガネがどのようにして作られているかなんて。日々の仕事に追われて考える余裕すらなかった。職人の娘のはずなのに、誰より理解していなきゃいけない立場のはずなのに」
鏡輔「瞳……」
瞳「だからもっといろんな角度からメガネのことを知りたいの」
鏡輔「…………」
瞳「ねえ、父さん」
鏡輔「その必要はない」
瞳「父さん」
鏡輔「ただどうしてもと言うなら、その時はサンダーバードで飛んで来い」
瞳「え?」
鏡輔「聞こえなかったのか?」
瞳「……いいの? 車体は赤くないけど」
鏡輔「勝手にしろ」
瞳「……ありがとう」
鏡輔「今日はもう帰るのか?」
瞳「ううん。たまの連休だし、福井駅の近くに宿取ってある」
鏡輔「たまには泊まっていけ」
瞳「でも……」
鏡輔「お前に失われつつある古き技術を盗む気があるならな」
瞳「父さん……」

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