映画「ポトフ 美食家と料理人」
(ブログの主旨)
感想やキャストや小ネタ等についてはいたるところで取り上げられている。
そのため、ここではその作品を観て「どのような構成なのか?」「どのようにしたら自分は面白いと感じたか?」等を考えることで自らの芸の肥やしにしていく。
下記にネタバレを含むので、悪しからず。
もともとミニシアターが大好きで、移転オープンしたル・シネマ渋谷宮下へ行こうと決めていた。
上映スケジュールを見たら本作の告知ビジュアルが目に留まり、知る人ぞ知る映画そして人間ドラマが好みなので、これを選んだという経緯。
客層はご年配の女性がほとんど。
驚いたのはスクリーンの真ん中に歩道があり、座席が左右に分かれているところ。
そういえばもとは渋谷TOEIだった。
近所のヒカリエはかつて東急文化会館で、パンテオンや東急名画座といった映画館がたくさんあった。
駅周辺の再開発やシネマコンプレックスの増加やコロナ蔓延で閉館となったようだが、決してミニシアターは無くならないでほしいと切に願う。
美食家・ドダンが、愛する女性料理人・ウージェニーとの結婚や死別を経て、彼女の料理を再現するために奔走する物語。
本作には展開に起伏が無い。
終始静かな描写が続き、「え?これで終わり?」という感じ。
「ポトフ」なるタイトルから、その料理を通じたふたりの物語なんだと思っていた。
予告編映像でも、長年(劇中のセリフでは「20年以上」)にわたって美食家と料理人というカンケイながら恋人未満な大人ふたりが、皇太子を唸らせるシンプルな料理・ポトフを作るべく奔走するものだとばかり。
ところが蓋を開けて見ると美しい料理シーンが多く、肝心なポトフの要素は薄く、ウージェニーは病に倒れてあっけなく亡くなってしまう。
そこからは最後までドダンが怒り嘆き悲しみ、山積みの問題はほぼ解決せずに終わる。
果たしてこの違和感の正体は?
原題を調べると「La Passion de Dodin Bouffant」(ドダン・ブーファンの情熱)、つまり「これは美食家・ドダンの人生なんだ」と思えば全編の描写がスッと腑に落ちてくる。
ゆえに邦題の「ポトフ」ではその料理にちなんだメインふたりのエピソードを想起させることになり、物足りなさを覚えてしまうのだ。
映画を観る際は原題と邦題の違いを確認する機会となった。
(すでに観た人へ向けて)
料理に物語や深みを求める美食家のドダンは、自分の思い描くレシピを実際に生み出す料理人・ウージェニーと一緒に暮らしていた。
ふたりの奏でる料理は素晴らしく、ヨーロッパ全土に広まるほどの勢い。
ある日、ユーラシア皇太子から晩餐会に招待されたドダンは、豪華なだけで論理もテーマもない大量の料理にうんざりする。
そこでドダンとウージェニーは皇太子に振る舞う料理をシンプルだけどテーマを持ったポトフにすることに。
↑ここまでが本編のあらすじ↑
(以下、個人的な味付けストーリー構成)
ところが、試行錯誤のなかでお互いの意見がぶつかって上手く(美味く)いかない。
(⇒主人公と副主人公の対立)
期限が差し迫るなか、ウージェニーが病に倒れる。
医師に診てもらうも長くないらしい。
(⇒タイムリミット)
瀬戸際に立たされたドダン。
彼女以外に料理人は考えられないと皇太子の件を断ろうとするもウージェニーに説得され、「何とかポトフを実現できる人物はいないか?」と躍起になるがなかなか見つからない。
(⇒主人公の大ピンチ)
そこへかつて使用人として働いていた天才的な味覚を持つポーリーヌ(※冒頭に登場するも、途中で実家へ帰っていた)が、ウージェニーが倒れたことを知って戻ってくる。
(⇒救世主の登場)
ドダンの指示通りにポーリーヌはポトフを作るが、納得のいくものではない。
(⇒再びピンチ)
そこへウージェニーが病を押してキッチンに現れ、ポーリーヌに最後のアドバイスを送る。
(⇒最後の賭け)
結果的に皇太子の舌を感動させることには成功したが、引き換えにウージェニーが亡くなってしまう。
ドダンからのプロポーズを病床の上、虫の息で受け止めながら…
(⇒別れ)
時は流れ、ドダンは新たな料理人としてポーリーヌを育てることに。
(⇒新たな冒険の始まり)
こうやって作品を分析してみると、自分はどう書けばいいかがわかる。
あくまで個人的にはこうして書こうと思っただけで、それ以外の意図はない。
それにどの作品にも賛否はあるわけで、決して断言はできない。
これを皮切りにいろんなミニシアターに行きながら、素敵な作品に触れていく。
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